公演を終えて。 |
お客様のアンケートより(抜粋) |
オイリュトミストの方々の動きと共に、座っている自分の内側の何かがとても動くのを感じました。
あるところまでは「身体が響きに合わせて動いている」という客観的事実を眼で見ているという状態なのですがそれがある時パッと越えてしまって音も動きも身体もこちらの身体もすべて一体になって境の無くなるような瞬間が生じます。
音と音の間、動きと動きの間がただの間ではなく、立ちのぼる何かがあって、それを強く感じる瞬間があるというか…
とにかくそのことが嬉しかったです。
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熱心に楽しくかつ真面目にオイリュトミーをされていることが伝わりました。
このような催しは貴重なのでこれからも頑張ってください。
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幼児教育に携わっている頃より、シュタイナーを通しオイリュトミーという言葉を知りました。
初めての出会い!?で知りたがりの私としてはあっという間の時間でした。
少々高いところへの扉かと固くなっての今日でしたが、とても自然で呼吸のしやすいひと時を得て正直びっくりしております。
伺って体験できたこと大変ありがたかったです。
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音楽や詩を深く勉強・研究して動きを作っていくことを感じました。
美しさだけでなく、力強いエネルギーを感じました。
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ぶどうの会中級クラスメンバーより |
数ヶ月前、先生から公演のプログラムをお聞きしたその瞬間から、わくわくが始まりました。公演という形の不安、自分がきちんとこなせるのか、お客さんに見ていただけるようにできるのかなど無いわけではありませんでしたが、先生のお話を聞いていると、とにかく一生懸命稽古をして先生についていけば、一定のラインにたどりつけそうな気がしました。
なにより、そのプログラムに魅せられました。過去から近現代、そして未来へとつなげていく大きな流れ、夜明けから昼、夜へ、「十力の金剛石」にはじまり、神に寿ぐ遊女(あそびめ)ら、そして月の光の中へ。さらに本番間近の1部2部通しの稽古になると、近現代から未来を体感することができました。
私にとってのオイリュトミーの一番の魅力は、「頭で考えて解る」のではなく、「身体で感じて解る」ということです。
今回の公演では、稽古から本番まで「解る」瞬間がたくさんありました。解ったと思ったことは、言葉にはできないのですが、心震える体験でした。
ひとりひとりの中に「仏性」があること、それを信じていた平安の人びと、無邪気なあそびの神聖さ、輝き、そして現代から未来へ…。
本番中には、芸能の器の中に「聖」や「清」と「俗」を結ぶきらめく一本の糸を見たようにも思います。
日が経って冷静になってみると、思っていたことの半分も表現できていなかったとも思います。沢山の課題に気づけたことも大きな収穫でした。
この公演に導いてくださった、渋谷先生、安齋先生、お手伝いくださった方々、一緒に舞台を踏んだ中級クラスのなかま、ひと時をともにしてくださったすべての方々と、公演に参加できた全てのめぐり合わせに、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
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奏身舎の一周年記念公演に参加する。それは、一部分であっても、紛れもない事実。
「先生の足を引っ張ってしまわないか?」
「お金を頂けるようなものになるのか?」
喜びよりも不安が先に芽を出し、その不安の果実は固く、なかなか消化されない。
もやもやと熟すのを待ち、そして一皮剥くと、その不安の果実は喜びの果実へと変わっていた。
「機が熟した!」(…ちょっと遅い。)
公演当日は、自分の血の色が変わってきているのではないかと思うような、妙な緊張もあったが、シルクの衣装や照明の力も借り、どうにかやり遂げた。(出来は、観た方の印象にお任せするとして…。)
そのあっという間の時間に費やした思い、時間は、確実にメンバーの実となり、力になると確信している。
足を運んでくださった皆様、ありがとうございます。(貴重な感想も!)そしてこのような機会を与えてくださった渋谷先生に感謝しています。ありがとうごさいました!
「…オイリュトミーって、いいなぁ。」
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あっという間の緊張と楽しさと喜びの時でした。
子供たちの『どうなるんだろ』というワクワク感や笑い声にとても勇気づけられ…
オイリュトミーする側とそれをご覧になる方が共同で空間を作り上げていく。
そういった感覚を拙くはありますが体感する事ができたと感じています。
今回の経験を経て、これまで以上に『オイリュトミーを通してカラダがしびれるような感動を味わいたい』と欲張りになったような気がしています。
このような機会を与えてくださり有難うございました。
渋谷先生と安齋先生、そして観てくださったすべてのお客様に心から感謝いたします。
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安齋裕司先生より |
響きの空間「奏身舎」が誕生し、あっという間に一年が過ぎた。昨年11月の落成セレモニーの日は、初雪が舞い、ちょうど満月の日だった。
そして今回の1周年記念は、大安で、見事な秋晴れの一日となった。公演には地元の方はもとより、遠方からも多数ご来場いただき、会場内は小さな子どもたちから大人までいっぱいだった。来て下さった方、そして出演者も含めて、ご協力いただいた全ての方に感謝申し上げます。
この一年、いろいろな方に「奏身舎」を利用していただいたことで、建物に生命が吹き込まれ、息づき、外観も周囲の風景にだいぶ馴染んで来た。
「奏身舎」のエーテル体が育ち始めているのを感じる。
「オイリュトミー」は「美しい(良い)、律動(リズム)」というギリシャ語に由来するが、「律動」を「生命形成力」と言い換えると、「美しい生命形成力]、言うなれば、「きらめくエーテル体」となる。「自我の洗礼を受けたエーテル体」が動きの中できらめくのである。
たとえば、ひとつの岩石をハンマーで砕いた時、中から長年封印されていた光が固有の輝きを持って現れ出る。そのように意識の力を体の隅々にまで注ぎ、それぞれが新たな光を能動的に人体内部から取り出してゆく。いわば、思考の光というハンマーを用いて粉砕されたものを意志の力で新しいものへと変容させようとする。その時、そのせめぎ合いの中で、その人固有のエーテル体がきらめくのだ。そして動きを通して発せられたきらめきは、あらゆるものを霊化の方向へと導いていく力となるのである。
今回の公演は「きらめきのゆきき」という歌で始まった。今後もこの場に訪れる方達の「きらめきのゆきき」が行われ、「奏身舎」という空間がエーテル化(生命化)してゆくことを願いたい。 |
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渋谷 智栄子先生より |
奏身舎1歳の誕生日となる記念公演は、宮沢賢治の「十力の金剛石」の五行詩の歌で始まりました。
「きらめきのゆきき
ひかりのめぐり
にじはゆらぎ
陽は織れど
かなし」
賢治の言葉は、水晶のような透明な輝きに満ちています。
それは、目で読むよりも、声に出して発声することで、さらに「運動芸術」オイリュトミーで動くことによって、より生き生きした言葉の力、生命力が実感できることでしょう。
古代の人は、こうした目には見えない言葉の力を‘言霊’と呼び、こころから溢れてくる想いを‘うた’にしました。
「うつ」「うったえる」というのが‘うた’という語そもそもの由来だとか。
そして、‘うた’とは、言葉と音楽の源である、とルドルフ・シュタイナーも語っています。
1周年記念公演では、このようなオイリュトミーや芸能の原点に立って、教える側と学び手が共に創造していく舞台をつくりたい!と思い、中級クラスの方に「梁塵秘抄」「モンポウ」の作品で、一緒に出演してもらいました。
発表会とは異なり「舞台公演」。大冒険でしたが、中級クラスの皆さんは、果敢に挑んで下さいました。
平安末期の歌謡『梁塵秘抄』は、女芸人が歌い広めた流行歌。時の権力者、後白河院がこよなく愛し、院自ら編纂したものです。今回は、太鼓や拍子木、グロッケン、ライアーなどの楽器を用い、楽しくも、どこか厳粛な、女芸人=「あそび達」のひたむきな仏への帰依する想いをオイリュトミーで表現しました。また、バルセロナのピアノの詩人、モンポウの「遠くの祭り」は、ジプシーの祭りの楽しさと歓び、終わった後の一抹の淋しさと哀しみをテーマにした作品です。
両者はどこか重なるところがあるように感じます。
それは、高貴な清まったところにではなく、雑多な大衆的なものからこそ、聖なるものが力強く顕われる、というところでしょうか。後白河法王が夢中になったのも、その辺りに秘密があるのでは・・・と勝手に推測しています。
群舞でのオイリュトミーの魅力、というと、やはり「フォルム」でしょう。
(オイりュトミーでは、響きとともに動くことによって、様々な形が生まれます)
たとえば・・・・
6人で渦巻く舞いは、蝸牛の出たり入ったりする動きに。
モンポウの曲での交差する動きは、人と人の一瞬の出会いを。
「たんちりおん」での、皆が一列になって次々に花開くような手の動きは、光り輝く千手観音像に。
みんなでつくる「輪」は、かつて一体だった根源的な世界を。
言葉のみですと、表面的な説明になってしまいますが、実際に、空間で人が動くことによって、言葉では言い尽くせない、揺り動かされるような感覚があります。
それは、体の不思議、空間の謎のなせる技といえましょう。
なぜ、人は踊るのか?
全ての踊りは、宇宙の星々の動きを模しているからだ、とシュタイナーは[一般人間学]において語っています。
かつて古代の人が、夢見るように行い、今では「伝統」「風習」として形骸化し、意味が忘れ去られてしまったもの。
それらに、オイリュトミーは、認識をとおして再び新たな生命を吹き込もうとします。
人間と宇宙。ミクロコスモスとマクロコスモスは、芸術体験をとおして再びつながろうとします。
公演本番では、照明=「色の言葉」の魔法のおかげで、空間全体がやわらかく息づくように感じられました。
「梁塵」とは、妙なる言葉や音の響きが、梁の上にある塵をもふるわせ、光にきらめきながら舞い降りたという故事から来ているそうです。
その日、奏身舎の梁からも、きらめきは舞い、行き来したのでしょうか・・・。
1周年記念公演が終わってひと月たちました。
盛況の内に終了したことへの深い感謝の気持ちとともに、これからも、訪れて下さる多くの方と、心ふるえる一瞬を共に重ねてゆきたいと、切に願います。 新月の日に (12/6) |
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